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離婚後に自由に生きる姿の記録

イケハヤ×はあちゅうの大学無意味論に反論2

さて私は以前

ツイッターで書いたところ100を超えるリツイートと300にちょっと届かないぐらいのイイネをいただきました。

地方移住に憧れを抱く心理と「大学無意味論」に賛同する方に似たような傾向があると感じましたので、この機会にツイッターの文字数では書ききれないことも含めて文章にしたいと思います。

 

 

 1.都会でダメだった人は田舎でもダメなことが多い

イケダハヤト氏の著書に

まだ東京で消耗してるの? 環境を変えるだけで人生はうまくいく (幻冬舎新書)

があります。

この書籍がネットを賑わせたころ、私は地方都市に住む者として強烈な違和感を感じました。

なぜなら「東京でダメだったやつは地方に来たってダメ」という事例をイヤというほど見てきたからです。

 歌舞伎町や栄・錦三でトップになれなかったやつが「地方都市の繁華街ならばトップになれる」と勘違いして地方に流れてくる例があります。

彼らの感覚では「仙台育英大阪桐蔭でレギュラーになれそうにない球児が、地方の準決勝止まりの常連高でレギュラーになって甲子園に出る」ぐらいの感覚で地方都市にくるのでしょう。

しかし歌舞伎町やキタ・ミナミでいちばんになれなかった人は地方都市でもいちばんになれないのです。

「トップになるための方法論」を間違えているか、または高校野球のような「比較的単純な能力の序列」がビジネス界には当てはまらないか、そのどちらかあるいは両方が原因だと思われます。

 そのような現象を見てきた者からすれば、 

・都会に疲れたから地方移住してスローライフ

という考え方と

・大学へ行かずにサロン

という考え方(発信者側の考え方ではなく情報受け取り側の考え方)には、

地方都市に都落ちしてくる水商売の人々と同じような甘さ・甘え

が見える場合が多いと感じます。

 

 

 

 

2.その選択のリスクを把握しているのか

地方のほうが良い面と都市部のほうが良い面、地方のほうが悪い面と都市部のほうが悪い面があるのは当たり前です。

地方移住でのスローライフを夢見る方やそれを勧める方の文章には「地方の良い面だけを享受しようとしているのではないか」と疑われることが多いです。

実際のところ、他の人もスローライフをしていることに起因するリスクを受け入れなければならないのです。

皆がスローライフをする地域の全国チェーンの飲食店では、店員の労働に対する姿勢がヌルいことが多いです。

都会の同じ看板の店にくらべてミスの多さや待たされる時間の長さといった「客が不快になりかねない現象」を多く目にします。

「自分がヌルい代わりに相手がヌルいのも許す」という環境なのか「そのヌルい環境がデフォルト値であるためにサービスの低さに気づかない」のかわわかりませんが、都会と同じサービスを受けながら自分だけはスローライフという幻想はかないません

また、都会のアパート暮らしでは必要なかった町会の義務が、田舎の持ち家生活では発生することがあり、行政サービス(ゴミ収集など)が各町会の負担を前提として簡略化されていることも多いです。

その場合、町会義務の拒否が行政サービスからの排除に直結することもあります。

 さらに言うと、そのような甘い地域の場合、高待遇な職場は「地域で分け合うのが当たり前」であることも多く、都会からやってきた「ちょっと能力の高いヨソ者」が競争原理の恩恵を受けて既得権益を奪取した場合、もともとの住人から見れば「自分たちの権利を奪いに来た侵略者」でしかありません。

田舎のヌルさを享受するということは、そのヌルさに付随した様々な不利益や不正(談合のような環境)とも共存する覚悟が必要となります。

弁護士会を通じて「村八分的人権侵害をやめろ勧告」を出してもらったところで「不作為の禁止(=作為の強制)」を法的に担保するのは難しく、スローライフ推奨派が語らなかった負担を受け入れるか、その地区での暮らしをやめるかの選択を迫られることも多いです。

地方移住によるスローライフを推奨する方が地方移住によるデメリットを語らず、スローライフを夢見た人々を失望させる例があるのと同様に、大学へ行かずにサロンへという生活を推奨する方がその選択のリスクやデメリットを語っていない可能性も考えなければいけません。

要は、イケハヤ氏やはあちゅう氏の記事を見て夢だけ見るのではなく、その選択のリスクについても、希望的観測を排除して検討する必要があるということです。

生命保険勧誘のおばちゃんが、自分のところの保険の良いことしか言わないのと同様に、イケハヤ氏やはあちゅう氏も良いことしか言っていないかもしれませんよ?

 

 

 

 

3.イケハヤ氏やはあちゅう氏はやりたいことだけして生きているのか?

これまで書いたように、イケハヤ氏やはあちゅう氏の極端な説に憧れる人の一部は結局のところ

彼らのように自分がやりたいことを実践していく生活に憧れている

(=やりたくないことや地味なことを忌避できる生活に憧れている)

ように見えるため「信者」などと揶揄されます。

イケハヤ氏やはあちゅう氏はイヤなことをせずに生きているのでしょうか?

はあちゅう氏の例で言いますと、Meetooで名乗りを上げた途端、過去の童貞蔑視発言を発掘され、「性差別を語る資格なし」と非難されることとなりました。

hagex.hatenadiary.jp

その際の謝罪文を読む限り、彼女が「謝りたくないけど謝る」という気持ちで書いたのが丸分かりの、「自分は悪くない」フレーズが入っています。

例:表現の自由や感受性・価値観の違いとは受け止められない方がいることに気づかされました。

この例をみても、彼女がやりたくないこと(=謝罪)をやっているのがわかります。

これからもネット上のモノ書きとして生活するために。

また、しみけん氏との事実婚公表時などのように、時折炎上して誹謗中傷にさらされます。

そういった環境を我慢したり自分なりに消化しなければならない環境というのも「不作為と作為の違い」はありますが、やりたくないことをやっている(やらざるを得ない)と言ってもよいのではないでしょうか。

イケダハヤト氏の場合はイケハヤランドが特定され、いつ匿名の素人が突撃してくるかわからない状態になっており、有名税というにはあまりにも不安な状態(少なくとも私には耐えられません)になっています。

イケダハヤト氏のような生活をするならば、それに耐える・受け入れるという「やりたくないこと」をやらなければならないのではないでしょうか。

 

 

 

4.生活費を稼ぐために

ナマポ生活をするのでなければ、何らかの方法で生活費を稼がなくてはなりません。

投資だけで稼ぐ能力があれば別ですが、多くの場合、生活費は労働で得ることになります。

「他人が必要としているが誰も思いつかなかった労働」をすれば人はそこにお金を払ってくれるでしょう。

それが自分のやりたいことと一致していれば幸せになれるかもしれません。

そういう名案が出てこないならば、他人がイヤがる労働をしてお金をもらうという方法もあるでしょう。

世の中には色々なお金の貰い方がありますが、その一つだけに「全ぶっぱ」するのはあまりにもリスキーではありませんか?

イヤなことであってもコツコツと努力して頭や体を慣らしておく、そういう意味でも私は大学受験の勉強をしたり、大学で勉強したりしておいたほうがリスクの少ない人生になると思います。

 

 

 

まとめ

1.「大学に行かずにサロン」に憧れる人の中には田舎スローライフに憧れる人と同じ甘さがある可能性がある

2.田舎スローライフ推奨派が田舎スローライフのリスクを言わないのと同様に「大学に行かずにサロン」を推奨する人もそのリスクを言っていない

3.イケハヤ氏やはあちゅう氏もやりたいことだけやって生きているわけではなく、リスクや負担のある生活をしている

4.色々なお金の貰い方があり、その多くに対応できたほうが人生のリスクが少なくなるのだから「大学に行かずにサロン」ではなく、大学で勉強しつつ社会勉強もしたほうがよい。